文学の寺

平安時代、貴族による石山詣が盛んになり、女流文学者も数多く石山の地に訪れました。紫式部がかの有名な『源氏物語』を起筆した伝説は後世まで語り継がれ、インスピレーションを求めてその後も多くの文学者が参拝しました。

文学の寺 石山寺

石山寺 写真
本堂(平安時代/国宝)

石山寺には、古来より文学者が多く参詣されました。中でも、紫式部が『源氏物語』を石山寺参籠中に起筆したという伝説は有名です。

石山寺の観音は京都の清水寺・奈良の長谷寺と並んで三観音といわれ、霊験あらたかな仏さまとして信仰を集めてきました。また、琵琶湖から流れ出す瀬田川と、伽藍山の木々に囲まれた石山寺の風光明媚な立地は、昔から参詣する人々に文学的喚起力を与えてきたことは疑いありません。その後も、いろいろな時代にさまざまな人々が石山寺をめぐって文学を紡ぎだしてきたのです。

平安時代と石山寺

平安時代、女性文学者たちに石山詣は人気がありました。『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母は、京の都から徒歩で石山寺に参詣したとされています。明け方に歩いて出発し、逢坂の関を越えて打出浜から船に乗り、石山寺に到着したのは夕方だったそうです。また、『更級日記』の作者菅原孝標女も石山寺に参籠したことが『石山寺縁起絵巻』(全七巻、重要文化財)に残されています。

藤原道綱母を始め参詣・参籠した人々は作品に石山での体験を書きとめていますが、紫式部はここで『源氏物語』の構想を得て執筆を始めたと伝えられています。また、多くの歌人たちが石山に足を運んで詠んだ和歌を残しています。

当時、都にほど近く、琵琶湖の風景を堪能しながら石山寺に参詣することは、観光的要素も含めて貴族の女性たちの楽しみでもあったと考えられます。

石山寺縁起絵巻 写真
「石山寺縁起絵巻」第2巻より

源氏物語の誕生

平安時代寛弘元年(1004)、紫式部は時の中宮の新しい物語を読みたいというリクエストを受け、新しい物語を作るために石山寺に七日間の参籠をしていました。そのとき、琵琶湖の湖面に映える十五夜の名月を眺めて、都から須磨の地に流された貴公子が月を見て都を恋しく思う場面を構想し、「今宵は十五夜なりけり」と書き出したのが『源氏物語』の始まりだったといいます。

この伝承は『石山寺縁起絵巻』や、『源氏物語』の古注釈書である『河海抄』をはじめとしていろいろの書物に記されています。世界文学の第一に挙げられる物語は、この石山で誕生したのです。本堂の一角にある「源氏の間」は物語執筆の部屋といわれます。

源氏の間 写真
源氏の間

源氏物語の力

『源氏物語』は続く時代の人々に大きな影響を与えました。和歌・連歌・俳諧・物語・小説・演劇・絵画・彫刻などあらゆる分野にわたっています。

江戸時代の芭蕉・西鶴・近松、近代の与謝野晶子・谷崎潤一郎・島崎藤村・円地文子・三島由紀夫などの石山や紫式部を主材にした作家たち、源氏物語の演劇や映画に出演した機縁で参詣した吉永小百合さんや有馬稲子さんもいます。『源氏物語』の各場面を絵に描いた各時代の絵師や画家も忘れてはなりません。

紫式部像 写真
紫式部像

松尾芭蕉と俳諧・連歌

近江八景「石山の秋月」のシンボルとなっている月見亭は、瀬田川の清流を見下ろす高台に設けられ、後白河天皇以下歴代天皇の玉座とされました。この月見亭の隣に芭蕉庵があります。俳聖松尾芭蕉は、たびたびここに仮住まいをして、多くの句を残しています。

石山の 石にたばしる あられかな
あけぼのは まだむらさきに ほととぎす

瀬田川周辺には、芭蕉ゆかりの地として墓地のある義仲寺の無名庵、長期滞在した幻住庵、岩間寺などが点在します。

芭蕉庵 写真
芭蕉庵

島崎藤村と密蔵院

密蔵院は、もとは東大門の門前にあった石山寺の塔頭の一つで、参拝者にお茶の接待をする「茶丈」でもありましたが、昭和44年(1969)、現在の場所に移築され、一部が改築されました。
自然主義文学者の島崎藤村は、明治26年(1893)2月、教え子との恋愛に悩んで関西を旅した際に石山寺を訪れて『ハムレット』1冊を奉納し、また同年5月にも再来して、約2か月間密蔵院に寄宿したようです。この時の生活は「茶丈記」(『文学界』第7号)、童話『眼鏡』、『力餅』などに描かれています。
また、境内には「石山寺にハムレットを納むるの辞」の一節が、文学碑として設けられています。

密蔵院 写真
密蔵院
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