境内のご案内
石山寺の境内には、国宝に指定されている本堂・多宝塔をはじめ長い歴史を持つ伽藍や、天然記念物の巨大な硅灰石など数多くの見所があります。ぜひ四季折々の花と共にご覧ください。
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東大門<重要文化財>
石山寺の正門で、瀬田川沿いに東面しています。鎌倉時代の建立とされますが、慶長期の淀殿の寄進による伽藍再興の際、新築に近い大規模な修理が行われました。建ちが高く屋根が大きい、全体的に和様の均整のとれた門です。
石山寺の正面を飾る東大門
石山寺の東大門は瀬田川沿いに東面し、建ちが高く屋根が大きい入母屋造、本瓦葺の建物で、全体的に和様の均整のとれた正門です。寺伝によれば鎌倉時代に源頼朝によって寄進されたといわれています。その時に使われた石造の唐居敷(門柱の下に敷かれる、門扉の軸受となる厚い石)が寺内の法輪院の庭石、多宝塔の礎石の中といたるところに残ることもあって謎が残る建立物です。
焼失を繰り返し豊臣の時代に、淀殿によって修理されたとされています。慶長期の淀殿の寄進による伽藍再興の際、新築に近い大規模な修理が行われたと考えられています。このことは、江戸時代にまとめられた「石山要記」や「石山寺年代記録」、本堂に掲げられていた額などに記されています。また、門の北側の妻飾り付近に、豊臣氏の五七桐紋が透かし彫りされています。淀殿が修理されたという話を裏付けする証です。
仁王像
門の両脇には仁王像が祀られています。鎌倉時代の仏師運慶・湛慶の作と伝わり歴史を感じさせる古さを伴って威厳と風格を備えています。
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観音堂
石山寺の本尊如意輪観音を中心に、西国三十三所観音霊場の観音がお祀りされています。
西国三十三所すべての観音様が安置される
本堂の東側に、毘沙門堂の南に西面して建つ観音堂は、石山寺の本尊如意輪観音を中心に、西国三十三所札所の観音さまが祀られています。江戸時代に石山寺の一﨟であった尊賢による「石山要記」には、宝暦年中に京都の「市人三井某老尼」の志願によって建立されたこと、当時は「札堂」と呼ばれていたことが記されています。建物の木部に残された多数の釘穴は、参拝者が札を奉納する場所であったことを裏付けています。
正面から見て右手には、石山寺のご神木、草創期の一本杉も植えられています。
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毘沙門堂<滋賀県指定有形文化財>
兜跋毘沙門天(平安時代、重要文化財)・吉祥天・善膩師童子を祀る堂宇です。兜跋毘沙門天を深く信仰する紀州の藤原正勝が建立し、建立の由来や造営の組織、工匠、造営方式が判明する点で貴重な建物です。<建造/安永2年(1773)>
兜跋毘沙門天・吉祥天・善膩師童子を祀る堂宇
本堂の東側、観音堂の北側に西面して建つ毘沙門堂は、兜跋毘沙門天(平安時代、重要文化財)・吉祥天・善膩師童子を祀る堂宇です。実際には正方形の平面ですが、間口三間に対して、奥行二間とし、方三間にしていない点が特色です。
棟札や「石山要記」から、安永2年に兜跋毘沙門天への信仰が厚かった和歌山の藤原正勝が施主となり建てたこと、大棟梁は大津の高橋六右衛門、治郎兵衛が大工は大阪の大西清兵衛が担当し、大阪で木材の加工や彫刻を行い、現地で組み立てたことなど造営方式がわかる点でも貴重です。
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蓮如堂<重要文化財>
現在蓮如上人が祀られている蓮如堂は、硅灰石の崖にせり出して建つ懸造の堂宇です。もともと三十八所権現社の拝殿として建てられ、神事にも仏事にも使用できるようになっています。寺院における鎮守拝殿の一類型として、重要な遺構の一つです。<建造/慶長7年(1602)>
神事や仏事にも使用されていた建築史上極めて貴重な鎮守拝殿
蓮如堂は神事のほか、仏事にも使用されていた非常にまれな建物です。明治以降、蓮如上人六歳の御影や遺品を祀ることから蓮如堂と呼ばれています。
蓮如堂は、寺蔵文書や東妻破風板の墨書などから慶長7年(1602)の建築で、その後、文化8年(1811)に桟瓦葺に改造されています。建物も造りは懸造で妻入りとし、入口に対向する妻面を閉鎖的に扱い、さらに鎮守側の北側一間通りを広縁とする礼拝空間を構成するなど、独特の平面構成を持つ建築として、寺院における鎮守拝殿の一類型として、建築史上からも極めて貴重な建築です。
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硅灰石<天然記念物>
石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものですが、石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは大変珍しく、国の天然記念物に指定されています。「石山寺」という寺名はこの硅灰石に由来しています。
巨石への信仰が古くから寄せられるパワ―スポット
境内の大坂を上りつめると、正面に硅灰石の雄大な姿が目を引きます。この岩は、この付近に吹き出した花崗岩の熱作用で、石灰岩が変成した硅灰石と呼ばれるものです。この作用によって通常は大理石となりますが、この石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは大変珍しく、国の天然記念物に指定されています。
「石山寺」という寺名はこの硅灰石に由来しています。琵琶湖を臨み、奇岩の突出する石山寺の地は古来、信仰が寄せられる霊地とされていました。現在では石山寺を象徴するパワースポットとなり、硅灰石の下から多宝塔を見上げる美しい光景が望めます。
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本堂<国宝/平安時代>
滋賀県最古の木造建築物とされており、承暦2年(1078)の大火で焼失しましたが、内陣(正堂)は永長元年(1096)に再建され、外陣(礼堂)は慶長7年 (1602) 淀殿の寄進により増築されました。
平安時代後期の形相を残した懸造りの豪快な仏堂
石山寺の創建は奈良時代に遡ります。天平宝字年間(757~765)に東大寺造営にかわってその資財調達のための造石山院所が置かれ、石山寺ではその時までに建てられていた仏堂が改築され、長さ七丈の仏堂となりました。この建物は承暦2年(1078)に焼失し、その後、永長元年(1096)に再建されたのが現在の本堂(国宝)です。「石山縁起絵巻」等の絵画史料から、焼失以前から礼堂の付いた懸造りの形態であったことがわかっています。
本堂内陣の宮殿(くうでん)に安置される本尊は、丈六で二臂の如意輪観世音菩薩で、安産・福徳・縁結・厄除の霊験あらたかな観音さまとして信仰を集めています。日本で唯一の勅封の秘仏で、33年に一度と、天皇陛下御即位の翌年に御開扉されますが、平成28年(2016)は33年に一度のご開扉の年にあたりました。天平時代の創建当初は塑像でしたが、平安時代後期に木造に改められました。平成14年(2002)に行われた調査では、胎内から厨子に納められた金銅仏4軀(飛鳥時代~天平時代、重要文化財)が発見され、厨子の銘文には4軀の仏像が「古像」(塑像の本尊)の像内に納められていたもので、うち1軀は聖徳太子から伝わった「往古の霊像」であり、これらが鎌倉時代に補修され胎内に納入されたことが記されていました。
礼堂
両棟を相の間の屋根でつなぎ礼堂の屋根を越えて破風をつくる総檜皮葺滋賀県最古の木造建造物で、永長元年(1096)に改築された内陣(正堂)と、慶長7年(1602)、淀殿の寄進により改築された外陣(礼堂)を相の間によってつなぐ複合建築です。礼堂は硅灰石の岩盤にせり出しで建つ懸造で、南面しています。
本堂の創建は石山寺草創期までさかのぼり、桁行五丈、梁間二丈であった建物を天平宝字5~6年(761〜762)に造東大寺司により七丈×四丈に改築され、その後10世紀後半までに礼堂が建て増しされましたが、承暦2年(1078)に焼失し、永長元年に再建されました。慶長期には、淀殿の寄進によって改築され、現在のような構造形式・規模となりました。源氏の間
本堂の相の間の東端にある東西に二間続きの部屋は、紫式部が参籠し『源氏物語』を起筆した場所と伝えられており、「源氏の間」と呼ばれています。この部屋は元々南北に二間続く部屋で、主に天皇、貴族、高僧の参拝や参籠に使用されていた様子が、「石山寺縁起絵巻」に描かれています。現在は、有職人形司十世伊東久重氏作の紫式部像が置かれ、火灯窓から再現された参籠の様子を見ることができます。なお、火灯窓の別名「源氏窓」は、この源氏の間に由来するといわれています。
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三十八所権現社<重要文化財>
天智天皇までの歴代天皇を祀る石山寺の鎮守社です。一間社流造、檜皮葺で、本堂の東側の硅灰石の上に建っています。慶長期の伽藍復興時に本堂の礼堂とともに建立されました。<建造/慶長7年(1602)>
神武天皇から天智天皇まで三十八代の天皇を祀る
三十八所権現社は天智天皇までの歴代天皇を祀る石山寺の鎮守社です。一間社流造、檜皮葺で、本堂の東側の硅灰石の上に建っています。
懸造りで妻を正面入り口とし、その突きあたりの妻面を壁とし閉鎖的に扱い、さらに本殿側の一間通りを広縁とする礼拝空間を構成しています。慶長年間、淀殿が石山寺礼堂(本堂外陣)を寄進した際、同じく淀殿の寄進により拝殿(現在は蓮如堂)・本堂が築かれました。
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経蔵<重要文化財>
経典を収めるための高床の校倉で、県下で最古の校倉造の建造物です。本堂の北東の一段高い場所に立っています。かつては、重要文化財「石山寺一切経」「校倉聖教」など重要な経典類が収められていました。
県下最古の校倉造の建造物
建築年代は明確ではありませんが、木鼻の意匠や校木の断面形状、垂木や桁の反り増しの形状などから、16世紀後期頃の建立ではないかと考えられています。
建物は桁行三間、梁間二間の高床校倉で、屋根は切妻造、桟瓦葺で、東に面して建っています。経蔵は、桁や垂木に反り増しを用い、台輪と校木を同高に納める技法をもち、建物全体に極めて保存状態もよいことが特徴です。
県下における数少ない校倉造の遺構の一つで、そのなかでも最古であり、さらに全国的にも類例の少ない切妻造の校倉としても極めて貴重です。本堂の北東の一段高い場所に立っており、かつては「石山寺一切経」「校倉聖教」(ともに重要文化財)など貴重な経典類が収められていました。
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多宝塔<国宝>
源頼朝に寄進により建立されたと伝わり、上下二層のバランスや軒の曲線の美しさで日本が誇る最古最美の多宝塔として知られています。本尊は金剛界の大日如来像で、四天柱には金剛界の諸尊と五大尊が描かれており、どちらも重要文化財に指定されています。
日本最古にして最も優美な多宝塔
多宝塔は硅灰石の上方にそびえ建つ国宝建築です。源頼朝公に寄進されたと伝えられ、下層の須弥壇上框裏面の墨書から建久5年(1194)に建立されたことが判明しています。建立年代が明らかな多宝塔の中でもっとも古い多宝塔であり、鎌倉時代の当初の形を保つ遺構として貴重です。上層は円形、下層は方形平面の二重の塔で上下二層のバランスや軒の曲線の美しく、日本が誇る最古にして最美の多宝塔として知られています。
平成24年3月23日に国宝多宝塔檜皮葺屋根葺替修理を行い、檜皮のやわらかな色合いが美しい姿に蘇りました。
金剛界の大日如来像と柱絵
本尊は、金剛界の大日如来像(重要文化財)で、胎内の銘文と作風から、鎌倉時代を代表する仏師快慶の作であることが判明しています。またこの本尊を囲む四天柱には金剛界の諸尊と五大尊が描かれており、多宝塔建立当時の平安時代から鎌倉時代へ移る過渡期の仏画の水準を示す貴重な作例として、こちらも重要文化財に指定されています。
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月見亭
保元年間、後白河上皇の行幸に際して建てられたといわれ、はるかに琵琶湖を望みながら瀬田川の美しい風景を楽しむことができます。「近江八景 石山の秋月」の図で描かれており、毎年中秋の名月の日に行われる「秋月祭」では、多くの人々がここから名月を楽しみます。
美しい瀬田川と名月を望む
月見亭は多宝塔の東の瀬田川を見下ろせる眺望の良い場所にあり、琵琶湖の向こうの北比良の山の稜線までの絶景を眺めながら美しい風景を楽しむことができます。保元年間(1156~1158)に後白河天皇の行幸に際して建立され、貞享4年(1687)に再建されたものと伝わります。
月見亭からは崖に張り出して立つ懸崖造の建物で、懸崖の部分は板で覆われ、袴腰付の楼のような外観となっています。「近江八景 石山の秋月」の図で描かれており、毎年中秋の名月の日に行われる「秋月祭」では、多くの人々がここから名月を楽しみます。
石山寺 秋月祭 -
鐘楼<重要文化財>
源頼朝の寄進と伝わる鐘楼です。上層には平安時代の梵鐘(重要文化財)が吊られており、下層から撞木を引いて撞くめずらしい構造となっています。
源頼朝が寄進した雄大な鐘楼
鐘楼は本堂の東側に経蔵と向かい合うように立っており、寺伝では源頼朝が寄進したと伝えられています。上層には、無銘であるものの妙音で知られる平安時代の梵鐘(重要文化財)が吊られており、下層から撞木を引いて撞くめずらしい構造となっています。
鐘楼は重層袴腰で、上層は正背面が5.6m、両側面が3.3mの檜皮葺の大きな屋根は入母屋造です。白壁の袴腰をつけた重層の鐘楼のカーブの建物全体の均斉をとる美しさが高く評価されています。
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御影堂<重要文化財>
真言宗の開祖弘法大師と石山寺第三代座主淳祐内供のお像を安置するお堂です。
弘法大師と石山寺第三代座主淳祐内供の像を安置するお堂
真言宗の開祖弘法大師と石山寺第三代座主淳祐内供の遺影を安置するお堂です。単層の檜皮葺で、内部は室町時代初期を降らない様式となっています。もとは三昧堂、もしくは法華堂とよばれ、法華三昧の道場でしたが、石山寺第三世座主淳祐内供の住房普賢院の転倒にあたり、弘法大師、良弁僧正、淳祐内供の御影を普賢院から移し、御影堂となったようです。何度か大きな改造が繰り返され、特に享保頃には、大梁を抜いて、四天柱のうちの前の二本を抜く大規模な改造がされています。現在は弘法大師と石山寺第三代座主淳祐内供のお像を安置しています。お参りすると美男子になるとも言われています。
塑造淳祐内供坐像
菅原道真公の孫で、石山寺第三代座主である淳祐内供の肖像彫刻です。弘法大師の膝に触れ、芳香が移った手で『薫聖教』を書かれた淳祐内供。額や口もとに皺を寄せ、今にも動き出しそうな老僧の姿が巧に表現されています。塑造で、応永5年(1398)に開眼供養されたことが台座裏面の墨書から判明しています。
豊浄殿
毎年、春と秋に「石山寺と紫式部展」を開催しています。石山寺の宝物と、紫式部や『源氏物語』を題材とした美術品などを展示しています(有料)。
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光堂
平成20年(2008)、石山を発祥の地とする東レ株式会社様によって寄進された堂宇です。鎌倉時代に存在したという「光堂」を復興したもので、本堂と同じ懸造となっており、阿弥陀如来を本尊としています。
鎌倉時代に存在した伝統的建築技法である懸崖造りを復興
平成20年(2008)、石山を発祥の地とする東レ株式会社様によって寄進された堂宇です。光堂の下には牡丹園が広がり、毎年4月から5月上旬にかけて大輪の花が見られます。また、2月から3月には、梅や早咲きの桜、水仙などで色鮮やかな花の風景に包まれる、新しい見どころでもあります。
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紫式部像
石山寺参籠の折に『源氏物語』の着想を得たと言われる紫式部の銅像です。境内の奥に広がる源氏苑の一角にあります。
源氏物語の着想を得たといわれる紫式部の銅像
石山寺参籠の折に『源氏物語』の着想を得たと言われる紫式部の銅像です。境内の奥に広がる源氏苑の一角にあります。石山寺の頂に近いこの場所には豊浄殿もあり、紫式部展も開催されるなど紫式部にゆかりの深い場所だといえるでしょう。
紫式部について
平安中期の女流文学者で、越前守藤原為時の娘です。藤原宣孝と結婚し、後冷泉院の乳母になった大弐三位賢子を産みます。夫の没後、「源氏物語」を書き始めます。一条天皇の中宮 藤原彰子(988~1074年。上東門院〈しょうとうもんいん〉)に仕え、藤原道長らに厚遇されました。初めの女房名は藤式部です。他に「紫式部日記」、家集「紫式部集」などがあります。
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八大龍王社
龍穴といわれる池の中島に建てられており、炎天下でも請雨法を修すれば必ず雨が降るといわれた場所です。「石山寺縁起絵巻」には、石山寺の僧侶歴海和尚がここで孔雀経を転読すると、龍王たちが池の中から現れて和尚の傍らに侍って護衛した様子が描かれています。
石山寺縁起絵巻に龍王たちが護衛して現れたと記す龍穴
八大龍王社は、東大門から無憂園のさらに奥へ進んだ場所に位置し、龍穴といわれる池の中島に建てられています。龍穴は、炎天下でも請雨法を修すれば必ず雨が降るという池で、「石山寺縁起絵巻」には、石山寺の僧侶歴海和尚がここで孔雀経を転読すると、龍王たちが池の中から現れて和尚の傍らに侍って護衛し、和尚が草庵に戻る際には背負って行った様子が描かれています。和尚が読経の際いつも座っていた池の前の大きな丸い石は「歴海和尚尻懸石」と呼ばれています。
金龍龍王社
大日如来の化身、石山寺の守護神で除災招福をつかさどるといわれています。
大黒天
万寿元年(1024)に、ご本尊は3人の僧の夢のお告げにて湖水より出現しました。
大湯屋
妻を正面とする切妻造の建物で、内部は前室、脱衣場、浴室の三室構成となっています。湯屋は全国的に例が少なく、貴重な遺構の一つです。
那須与一地蔵尊
本堂へ通じる大坂(石段)の下の小さな祠に安置されるこの像は、境内の参道の整備中に、本堂正面下あたりから発見され、現在の場所に祀られています。『平家物語』中の扇の的を射抜く話で有名な那須の与一が石山の地で療養中、信仰されたお地蔵さまと伝えられています。
龍蔵権現社
本堂へ向かう大坂(石段)の半ばに東面して建つ龍蔵権現社は、宝治元年(1247)、勧進沙門祐円が再興しましたが、天明のころ朽損し、明和年間(1764〜1772)再興されました。
芭蕉庵
月見亭すぐ隣に立つ平屋建ての茶室が芭蕉庵です。元禄年間(1688〜1704)、幻住庵に滞在していた松尾芭蕉は度々石山寺に訪れ、この地に滞在したと伝えられています。
心経堂
花山法皇西国三十三所復興一千年記念行事の一環として、平成2年(1990)に建立された堂宇で、多宝塔の北東の一段高い場所に位置します。内部中央には如意輪観世音菩薩と、石山寺に奉納された写経を納める輪蔵が安置されています。
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密蔵院
明治26年(1893)、島崎藤村が20歳のころ石山寺の門前にあった石山寺の茶丈密蔵院に約2ヶ月間滞在しました。現在、密蔵院は、東大門からのびる参道のつきあたりに移築され、藤村ゆかりの建物として大切に残されています。
島崎藤村ゆかりのお堂
明治26年(1893)、島崎藤村が20歳のころ、石山寺の門前にあった石山寺の茶丈密蔵院に約2ヶ月間滞在しました。藤村はその時のことを「茶丈記」と題して雑誌『文学界』に寄稿しています。現在、密蔵院は、東大門からのびる参道のつきあたりに移築され、藤村ゆかりの建物として大切に残されています。
島崎藤村だけでなく、紫式部にも愛された密蔵院は、現代においてもロボットのイベントを開催したりと時代の先人たちを引き寄せる魅力があるのかもしれません。
子育て観音
子育てに悩んでいる親御さんにご利益ありといわれています。
西国三十三所観音(石仏)
観音菩薩の住地である「補陀落山」と刻まれた石碑から、無憂園沿いの山道を登っていくと、西国三十三所札所観音霊場の観音像が札所順に配されており、気軽に西国巡礼をすることができます。
閼伽井屋
本堂の下の南寄りにある井戸で、本尊の御座の下から湧き出ていると伝えられており、本尊にお供えする水はここから汲まれます。
くぐり岩
穴をくぐると願い事がかなうとされるパワースポットです。
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比良明神影向石
東大寺の僧良弁僧正と近江の地主であった比良明神が出会った場所とされています。良弁僧正は聖武天皇に東大寺の大仏建立に必要な黄金の調達を命じられ、石山の地を訪れた際、この石の上で釣りをしていた比良明神と出会いました。
良弁を導いた老人が座っていた「比良明神影向石」
志納所を過ぎ、明王院の前に位置する比良明神影向石は、良弁僧正と比良明神が出会った場所とされています。
「石山寺縁起絵巻」によれば、東大寺の僧良弁僧正は、聖武天皇に東大寺の大仏建立に必要な黄金の調達を命じられ、金峯山に籠って金剛蔵王の夢告を受けてこの石山の地を訪れた際、岩の上で釣りをしていた老人から、お告げの地がまさにこの地であったことを知らされます。この老人こそが近江の地主であった比良明神で、比良明神が座っていた石は「比良明神影向石」として今も大切に守られています。
影向石とは神様が降臨する石という意味です。 -
宝篋印塔
南北朝時代の作と思われ、基礎・塔身・笠などの比例は申し分なく、基礎の格狭間、塔身の梵字、笠の耳飾りなども南北朝ころの典型的な特色を示しています。現在、この塔のまわりには、四国八十八ヵ所の砂が敷かれており、お砂踏みができるようになっています。
この塔の周りの石畳を廻ると、四国八十八ヵ所霊場を巡る功徳が得られるといわれる
重要文化財御影堂の前、毘沙門堂の向かって左に位置し、基礎から相輪まで完全にそろっており、造立年代は明らかでありませんが、様式からみて南北朝時代の作と思われます。基礎・塔身・笠などの比例は申し分なく、基礎の格狭間(こうざま)、塔身の梵字(ぼんじ)、笠の耳飾り(二つの弧からなる)なども南北朝ころの典型的な特色を示しています。現在、この塔のまわりには、四国八十八ヵ所の砂が敷かれており、お砂踏みができるようになっています。
安産の腰掛石
高床式に建てられた経蔵の束(つか)の一部は、露出した硅灰石の岩盤に直接立てられていますが、その束を抱くように岩盤に座ると安産になると伝えられています。
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紫式部供養塔<重要美術品>
石山寺で『源氏物語』を起筆した紫式部の供養塔です。宝篋印塔の笠を3つ重ねた珍しい層塔(三重宝篋印塔)で、初重の4面に仏像が浮き彫りにされており、相輪の代わりに宝珠を冠っています。高さ2.6mで鎌倉時代の作です。
宝篋印塔の笠を3つ重ねた珍しい層塔
経蔵のすぐそばに、松尾芭蕉の句碑と並んで立っており、紫式部供養塔と伝わります。
宝篋印塔の笠を3つ重ねた珍しい層塔で、初重の4面に仏像が浮き彫りにされており、相輪の代わりに宝珠を冠っています。高さは2.6mで無銘であるが様式からみて、鎌倉時代中期頃の作品ではないかといわれています。上層軸部を堀りだしている点からみて、寄せ集めで作られたものではないことが証明されており、美術品の分野においても高く評価されています。 芭蕉の句碑
芭蕉が詠んだ句「曙はまだむらさきにほととぎす」を芭蕉自らが記した「芭蕉自画賛句」(石山寺所蔵)と同内容の文字を刻む、高さ1.7mの円柱です。句碑の背後の銘文から、嘉永2年(1849)に信州の松岡斎梅朗によって建立されたことがわかります。
めかくし石(石造宝塔)
多宝塔の西側に立つ石造宝塔は、鎌倉時代の作と言われ「めかくし石」と呼ばれています。目隠しをして塔身を抱きとめることができれば願い事が叶うと伝わり、現在も若者に人気のスポットです。
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源頼朝供養塔
亀谷禅尼供養塔<重要文化財(亀谷禅尼供養塔)>右が源頼朝、左が亀谷禅尼の供養塔と伝えられています。亀谷禅尼は源頼朝の第二の姫の乳母であり、剃髪後石山寺に住し石山の尼と呼ばれ、頼朝に石山寺の再興を勧め、多くの寺領を沙汰したと伝えられています。
源頼朝と乳母の供養塔
多宝塔の北西に並んで立つ2基の宝篋印塔は、右が源頼朝、左が亀谷禅尼の供養塔と伝えられています。
亀谷禅尼は源頼朝の第二の姫の乳母であり、石山寺の毘沙門天に戦勝祈願をした中原親能の妻です。剃髪後石山寺に住し石山の尼と呼ばれ、宝塔院を建立して本尊大日如来の胎内に頼朝の髪の毛を納めて日々勤行を為し、頼朝に石山寺の再興を勧め、多くの寺領を沙汰したと伝えられています。この二人のために、後世の人が供養塔を建立したと考えられ、亀谷禅尼供養塔は南北朝、源頼朝供養塔はそれに続く時期のものです。 天智天皇の石切場
本堂正面のすぐ下方にある石切り場跡には、天然記念物「硅灰石」が道沿いに露出しており、15か所の採石痕があります。近年、ここから切り出された石が、天智天皇の時代に飛鳥の川原寺中金堂の礎石に使用されていることが明らかとなりました。
霊仙三蔵碑
霊仙三蔵の遺徳をたたえ、昭和55年(1980)に石山寺の無憂園に建立されました。霊仙三蔵は近江坂田の出身で、唐に渡り般若三蔵とともに『大乗本生心地観経』の翻訳に関わった日本僧であり、日本人で唯一「三蔵」の称号を持つ人物です。『大乗本生心地観経』は、当初般若三蔵一人による翻訳と考えられていましたが、石山寺に所蔵される同書の巻頭に「日本国沙門霊仙筆受並訳語」とあることから、霊仙三蔵が翻訳に携わったことが判明しました。
良弁杖桜
硅灰石の手前の向かって右側にある八重の山桜は、良弁杖桜と呼ばれ、石山寺の開基である良弁僧正の杖が根付いて育ったと伝えられています。
神木
石山寺のご神木で、千年杉といわれています。
神木
石山寺のご神木で、千年杉といわれています。
神木
石山寺のご神木で、千年杉といわれています。
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朗澄律師大徳遊鬼境
石山寺の経典・聖教の収集・整備に尽力した学僧朗澄律師の偉業を偲ぶ庭園で、平成11年(1999)に造られました。朗澄律師は、自分の死後は鬼となって石山寺の経典と聖教を守ると誓い、庭園の中央には朗澄律師の鬼の姿を刻んだ石碑が設置されています。
金色の鬼となって石山寺の経典と聖教を守る朗澄律師の庭園
石山寺の経典・聖教の収集・整備に尽力した学僧朗澄律師の偉業を偲ぶ庭園で、平成11年(1999)に造られました。朗澄律師は、自分の死後は鬼となって石山寺の経典と聖教を守ると誓い、律師が亡くなった後に弟子の前に金色の鬼の姿となって現れたことが「石山寺縁起絵巻」に記されています。庭園の中央には「石山寺縁起絵巻」に描かれた朗澄律師の鬼の姿を刻んだ石碑が設置されています。
しじみ貝塚碑
近畿地方を代表する縄文時代早期の遺跡「石山貝塚」を記念する碑です。この貝塚一帯から住居跡とともに人骨や石器・骨角器・縄文土器が出土しています。
松尾芭蕉句碑
石山の石にたばしるあられかな
石山寺の名の由来でもある巨大な硅灰石の上にあられが激しく降り注いでいる光景を詠んだ句の句碑です。